ローマ人への手紙9章 選びと遺棄、なぜ信仰が必要なのか | 張ダビデ牧師

選びと遺棄は、信仰による応答を無意味にしてしまうのでしょうか。張ダビデ牧師によるローマ人への手紙9章11~33節の説教をたどり、ヤコブとエサウ、陶器師のたとえ、異邦人の救いを通して、神の主権とあわれみ、行いと信仰、悔い改めと従順の関係を思い巡らします。

張ダビデ牧師


神が先に選んでくださったのなら、今日、私が信じ、悔い改めることには、どのような意味があるのだろうか。張ダビデ牧師(米国Olivet University創設者)によるローマ人への手紙9章11~33節の説教は、この問いを神の主権と人間の信仰との関わりから考察する。選びは、救いの出発点が神の恵みにあることを示し、その恵みは私たちをキリストのもとへと招く。パウロの論述をたどると、誰が選ばれたのかを推し量っていた私たちの関心は、自分は何に頼っているのかを問い直すことへと向けられる。


選びと遺棄、人間の功績に先立つ神の恵み


この説教において、選びとは、神が罪人を恵みによって救いへと召されることを指し、遺棄とは、その選びにあずからず、裁きの下にとどまるという問題を指す。この言葉を聞くと、神の義に対する疑問と、自分の救いについての不安が同時に生じるかもしれない。しかし、パウロの議論は、人間があらかじめ救われる資格を備えていたことを前提としていない。すべての人が罪の下にあるという事実から、恵みの意味を読み取らなければならない。


ローマ9章11節では、ヤコブとエサウはまだ生まれておらず、善も悪も行っていなかった。パウロは、その時すでに、神の選びの御旨が示されていたと語る。二人の成し遂げたことを比べ、より優れた者に報酬が与えられたのではない。この説教は、その時間的な順序に、人間の功績に先立って与えられる神の恵みを読み取る。


私たちは、よい働きをした人が認められ、より多く労した人がより多く受け取るという秩序に慣れている。その秩序をそのまま救いに当てはめれば、神は人間の業績を計算し、それに応じた対価を支払う方になってしまう。しかし、罪の赦しは、神に請求できる賃金ではない。選びの恵みは、自分には救われる資格があったという誇りを取り去り、資格のない私を召してくださった神への感謝へと導く。


マタイ20章のぶどう園の労働者のたとえは、この恵みを前にして表れる人の心を照らし出す。先に来た人々は、後から来た人々も同じ一デナリを受け取るのを見て不平を言う。他の人に示された好意を、自分の労苦に対する損失のように受け止めてしまうのである。選びについての御言葉を読む私たちも、神の御心を問いながら、自分が定めた資格の序列に従うよう神に求めてはいないか、顧みる必要がある。


陶器師の主権と、忍耐をもって示されるあわれみ


とはいえ、選びと遺棄が残す難しさを、他者と比較する心だけで説明することはできない。パウロ自身も、神に不正があるのかと問い、それを断固として否定する(ローマ9:14)。続いて、ファラオを立てられた目的と、その心をかたくなにされることについて語り、人間には推し量りがたい歴史の中でも、神の力と御名が現されることを説明する(ローマ9:17~18)。本文は、その難問を取り除いてしまうことなく、読者を創造主と被造物の関係へと導いていく。


ローマ9章20~23節では、陶器師は同じ粘土から、異なる用途の器を造る。このたとえは、創造主が被造物に対する御旨と権限を持っておられることを示している。人間の限られた経験から、その御旨の全体を判断することはできない。張ダビデ牧師は、この主権を、神の善良さと義、忍耐とあわれみの中で理解するように導く。


怒りの器とあわれみの器がともに登場するという事実は、裁きの重みを軽くするものではない。同時にパウロは、神が忍耐しておられることも語っている。その忍耐を見つめるなら、今日、悔い改めることのできる時間を当然とは思えなくなる。神の御旨をすべて知ることはできないという告白は、これまで自分に忍耐してくださった恵みを顧みる祈りへとつながり得る。


神の御旨をすべて理解できないからといって、私たちのなすべき応答がなくなるわけではない。選びは、救いの始まりが神の恵みにあることを示し、信仰は、私たちがその恵みを受け入れる応答を指す。だからこそ、神の主権を語ったパウロの議論は、ローマ9章の終わりで、人は何に頼って義を得るのかという問いへと続いていく。恵みが先にあるという告白と、キリストを信じなさいという招きを、共に読み取らなければならない理由はここにある。


行いに頼るとき、つまずきとなる石


ローマ9章30~33節で、パウロは異邦人とイスラエルを対比する。義を追い求めていなかった異邦人が信仰によって義を得た一方で、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法の求めるところに達しなかった。パウロが明らかにする理由は、信仰によらず、行いに頼ったからである。これを、異邦人のほうが優れていたから救われたという説明に置き換えれば、恵みのあるべき場所に、再び人間の資格が入り込んでしまう。


神の民ではなかった者たちをご自分の民と呼ばれるという、ホセアを通して与えられた約束も、この流れを明らかにする(ホセア2:23)。神の召しは、人間があらかじめ引いた所属の境界を越えていく。すでに恵みを受けた人にとって、この事実は、他者に接する態度をも顧みるよう促す。教会に初めて訪れた人に対して、その背景や経歴から先に確かめようとするなら、自分も賜物として救いを受けたという告白が、その出会いにおいてどのような意味を持つのかを問うことができる。


この箇所は、信仰生活における熱心さが何に頼っているのかを明らかにする。同じ礼拝や奉仕であっても、それによって自分を義としようとすることもあれば、受けた恵みに感謝して担うこともある。外から見える労苦の量だけで、この二つの姿勢を見分けることは難しい。過ちを指摘されたとき、これまで行ってきたよいことをまず持ち出して自分を弁護したくなるなら、それは、その労苦が何を拠り所としているのかを顧みる機会となる。


マタイ15章のカナン人の女性は、自分に誇れる資格がない状況でも、イエスのあわれみを求めた。食卓から落ちるパンくずでもよいと願う懇願には、主に望みを置く信仰が込められている。この説教は、その女性の姿に、自分の条件を前面に出さず、恵みにすがる信仰を読み取る。大切なのは、自分をどれほど低く言い表したかではなく、救いを与えてくださる方として誰を信じているかである。


だからこそ、謙遜や切実さまでも、新たな功績に変えてはならない。十分にへりくだり、熱心に祈ったのだから救われるべきだと考えるなら、信仰までもが、神に対価を求める手段になってしまう。信仰とは、キリストが成し遂げてくださった救いを受け入れ、自分をその方に委ねることである。神の選びと人間の応答を、互いに条件をすり合わせる取引として理解してはならない。


パウロが語るつまずきの石は、イエス・キリストを指している。自分の義に固執するとき、その方はつまずきの石となるが、罪の赦しを求めてより頼む人にとっては、救いの岩となる。ローマ9章33節は、その方を信じる者は恥を受けることがないという約束で結ばれている。この御言葉を前にして必要なのは、自分の信仰の経歴をさらに積み上げて見せることではなく、今、誰に頼っているのかを正直に顧みることである。


選びの恵みに、信仰と従順をもって応える


それでは、自分が選ばれているかどうか分からず、恐れを抱く人は、どこから始めればよいのだろうか。ローマ10章13節は、主の御名を呼び求める者に救いを約束している。神の隠された御旨をすべて解き明かしてからでなければ、祈れないわけではない。今、キリストにより頼み、罪から立ち返りなさいという福音の招きが、私たちの前にある。


張ダビデ牧師は、神の選びが先にあるという事実と、人間が信仰によって応答すべき責任を共に強調する。すでに選ばれているのだから、どのように生きても構わないという考えは、その恵みの意味を見失っている。悔い改めを先延ばしにしながら救いの確信だけにしがみついたり、愛されていると告白しながら隣人への愛を顧みなかったりする姿勢も、吟味しなければならない。恵みを信じるという告白は、今日の選択と行動へとつながっていく。


この説教があわせて取り上げるヤコブの手紙2章17節は、行いのない信仰の問題を明らかにする。善い行いは、救いを得るために支払う代価ではなく、恵みを受けた信仰が結ぶ実である。 この順序を覚えていれば、従順は、自分を証明しようとする焦りから解き放たれ、受けた愛に応える営みとなる。赦されたからこそ、過ちを隠さずに認めることができ、恵みを受けたからこそ、人目につかない労苦も担うことができる。


ローマ11章にまで目を向けると、他の人の救いを簡単に断定することはできなくなる。この説教は、イスラエルの失敗の先になお残されている回復の希望と、異邦人に開かれた救いを共に見つめる。今は信じていないからといって、その人の未来を閉ざしたり、過去を理由に悔い改めの可能性を消し去ったりすることはできない。自分を召してくださったあわれみを覚える人は、自分の判断で結論を急ぐよりも、神の働きを忍耐強く待つことができる。


選びについての御言葉を読んでも、すべての疑問が一度に解けるとは限らない。それでも、恵みを待ち望む人に、まず資格を証明するよう求めていた自分の姿勢を顧みることはできる。ぶどう園で他の人の賃金を数えていた視線が、主人の善意へと向けられるように、信仰は、自分に与えられた救いを感謝し、他の人に注がれた恵みをも喜ぶように導く。今日、神の前に立つ私は何を誇ろうとしているのだろうか。そして、神のあわれみにより頼み、どのような従順の一歩を踏み出せるだろうか。


張ダビデ博士は、現地宣教とデジタルメディア宣教を通じて、世界各地に福音を伝えてきた。そして、その働きの実りとして、大宣教命令に献身する多くの人々が立てられた。このような宣教的ビジョンを土台として、オリベットは当初、宣教師訓練のための小さな教会学校として出発した。その後、より体系的な神学教育と宣教人材の育成のため、2000年にロサンゼルスとソウルにオリベット神学大学および神学校が設立された。


学校が成長する中で、張博士は2004年、サンフランシスコにOlivet Universityを正式に設立した。オリベットは、サンフランシスコの多様性とダイナミックな環境の中で、神学を中心に、音楽、ジャーナリズム、芸術デザイン、技術分野にまで教育領域を拡大していった。また、ウィリアム・ワグナー博士をはじめとする教授陣を迎え入れ、教育力を強化し、2005年には旧UCバークレー・ダウンタウン・エクステンション・キャンパスへ移転して、大学としての基盤をさらに固めた。


2006年、張博士は宣教の働きにさらに専念するため、学長職をデイビッド・ジェームズ・ランドルフ博士に譲り、国際総長として世界宣教の働きを導いた。その後、Olivet Universityは2009年に機関認証を取得し、言語教育大学と経営大学を追加するとともに、学位課程と国際協力関係を拡大しながら、世界宣教のためのキリスト教教育機関として継続的に成長していった。


張ダビデ牧師 公式ホームページ: www.davidjang.org



작성 2026.11.04 16:58 수정 2026.11.04 16:58

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