ハガルとサラのたとえ、律法と恵みはどう違うのか|張ダビデ牧師

恵みによって救われたのに、なぜ自分の功績を付け加えようとするのでしょうか。張ダビデ牧師のガラテヤ人への手紙4章と5章の説教をたどり、ハガルとサラが示す二つの契約を読み解きます。律法と恵みの違いを通して、神に信頼する信仰と、聖霊にあって隣人に仕える自由の意味を黙想します。

張ダビデ牧師


祈ろうと頭を垂れたとき、神の前に差し出せそうな自分の働きや努力が、まず思い浮かぶことがある。その労苦を、神に受け入れられるための代価と考えているなら、信仰はどこに平安を見いだせるだろうか。張ダビデ牧師によるガラテヤ人への手紙4章と5章の説教は、ハガルとサラのたとえを通して、律法と恵みの違いを明らかにする。神の約束によって与えられた救いを信じる人は、自分の価値を証明することに縛られた生き方から解き放たれ、聖霊にあって隣人を愛する自由へと歩み出す。


二人の息子の誕生と二つの契約の違い


ガラテヤ人への手紙4章21節以降で、パウロはアブラハムの二人の息子、イシュマエルとイサクを並べて語る。ハガルから生まれた息子は肉に従って生まれた者、サラから生まれた息子は約束によって生まれた者として説明される。二人の女性は、それぞれ奴隷の状態と自由に結び付く、二つの契約を表すたとえとして語られている。パウロが明らかにしようとしているのは、神の前で義と認められる根拠が、人間の力にあるのか、それとも神が与えてくださった約束にあるのかということだ。


ハガルがシナイ山の契約と結び付けられ、上にあるエルサレムが自由を示しているという説明も、この問いを踏まえて読む必要がある。律法を救いの条件とすれば、人は自分の行いに頼るようになる。しかし、約束の子は神が与えてくださった恵みによって生きる。イサクの誕生は、両親に子を授かるための条件がすべてそろっていたことの証拠ではない。人間の力では出産を期待できなかったサラに新しい命を授けられたことは、神が約束を忠実に果たされる方であることを示している。


サラもまた、待ち続ける中で心が揺らいだ人だった。創世記16章で、アブラハムとサラはハガルを通して子を得ようとし、その後には軽蔑と責任の押し付け合いが続いた。この説教は、その選択の中に、目の前の結果を確保しようとする焦りが、約束への信頼を押しのけてしまう姿を読み取る。人間の計算で不安を終わらせようとしたものの、手にした結果は新たな葛藤を生んだ。


張ダビデ牧師は、こうした失敗の後にも、神が創世記17章で契約を改めて確かなものとして示されることに注目する。約束の子という身分は、神の真実に基づいている。このことを心に留めるなら、失敗を隠すために、別の成果を急いで生み出そうとする必要は薄れていく。過ちを認め、自分の力で支配しようとしていた結果を神に委ね、与えられた務めを誠実に果たす歩みへと立ち返ることができる。


従順が救いの条件に変わる瞬間


この区別は、律法を捨てたり、神の御言葉を軽んじたりするよう勧めるものではない。律法は罪を明らかにし、人が自分の力では義となれないことを悟らせる。問題は、罪を照らし出す御言葉を、自分の救いを保証するものにしようとする姿勢にある。何が正しいかを教える律法が、そのまま罪人を救う力になるわけではない。それゆえ、私たちはキリストが成し遂げてくださったことに目を向けるのである。


ガラテヤの教会を揺るがせたのは、異邦人の信徒も救われるためには割礼を受けなければならない、という教えだった。しかし、アブラハムは信仰によって義と認められ、割礼はすでに与えられていた契約のしるしだった。そのしるしを救いの必須条件に変えると、信仰によって受けた恵みには、まだ足りないものがあるという考えが入り込む。キリストを信じるという告白に、人間が満たさなければならない資格を付け加えることになるのだ。


パウロがガラテヤ人への手紙5章3~4節で厳しく警告しているのは、そのためである。割礼を義と認められるための条件として受け入れる人は、律法全体を守る義務を負う。そして、律法によって義と認められようとする道は、キリストから切り離され、恵みから落ちてしまう道だというのである。単に信仰生活に決まりが一つ加わる程度の問題ではない。救いの根拠が、キリストから自分の成し遂げたことへと移ってしまうからだ。


イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた救いを、信仰によって受けるという福音は、このような計算を終わらせる。キリストがなさったことに、自分が補って完成させなければならない不足分が残っているかのように生きる必要はない。従順は、救いを得るために支払う代価ではなく、恵みによって救われた人がささげる応答である。 恵みに信頼するほど、従順の意味もいっそう明らかになる。


それでも人は、恵みに自分の功績を付け加えたくなる。与えられた約束に信頼するよりも、自分が守ってきたことや成し遂げたことを数えるほうが、確かに感じられるからかもしれない。そのように信仰を管理すれば、うまくできた日の誇らしさが大きくなるほど、できなかった日の恐れも大きくなる。この説教が神に全面的により頼むことを強調するのは、人間の成し遂げたことによっては、神の前に立つ根拠を築けないからである。


約束の子は何により頼んで生きるのか


ガラテヤ人への手紙5章1節は、キリストが与えてくださった自由のうちに堅く立ち、再び奴隷のくびきを負わないよう勧めている。ここで自由は、これからもっと努力して獲得しなければならない身分として示されているのではない。キリストが与えてくださった自由を信じ、その自由のうちに立つよう招かれているのである。信仰の中心を日々の成果に置くと、すでに受けている恵みを確認するために、際限なく新しい証拠を探し求めることになる。


この説教は、その自由を、神を父と呼ぶ子としての関係に結び付けている。子どもは父のもとへ行くたびに、自分の資格を一から証明しなければならないわけではない。聖霊が私たちのうちにおられるという信仰は、神を、遠くから私たちを評価するだけの方として見てしまう姿勢を省みさせる。失敗した日にも、過ちを認め、助けを求めながら神のもとへ行くことができる。この事実が、恵みにより頼む祈りの出発点となる。


このように神により頼む信仰は、責任を避ける言い訳にはできない。悔い改めるべきことがあれば立ち返り、委ねられたことがあれば誠実に果たさなければならない。ただし、それを自分一人の力で自分を完成させる課題として背負い込むのではなく、聖霊の助けを求めながら学んでいく。救いを受けた最初の瞬間に必要だった恵みは、品性が養われ、従順を身に付けていく今日も、私たちを支えている。


祈りと礼拝と奉仕は、こうした生き方を形づくる大切な実践である。同じ奉仕でも、それによって神に認められる権利を買おうとすれば、他の人の労苦が自分の取り分を奪うかのように感じられることがある。すでに受けた愛に感謝して仕えるなら、仲間の労苦を共に喜ぶ理由が生まれる。大切なのは、献身の量を減らすことではなく、その献身を何の根拠にしようとしているのか、正直に見つめることである。


恵みによって得た自由が、愛の奉仕となるとき


この自由が向かう先は、ガラテヤ人への手紙5章13節で、思いがけない形で示される。パウロは、自由を肉の働く機会とせず、愛によって互いに仕えるよう勧めている。奴隷のくびきから解き放たれた人に、愛によって互いのしもべとなるよう語るのである。前者の隷属が、義と認められるために自分を縛る状態であるなら、後者の奉仕は、受けた恵みのうちに、隣人のために喜んで自分を差し出す生き方である。


張ダビデ牧師は、この愛を可能にする力を、聖霊の働きに見いだす。ガラテヤ人への手紙5章16節の勧めのとおり、聖霊に従って歩むとき、愛、寛容、柔和、節制の実が結ばれる。争い、ねたみ、怒りを「自由」という言葉で正当化せず、自分の反応を主の前で振り返る訓練も、ここに含まれる。聖霊により頼むとは、今日の一つ一つの選択の中で、隣人を愛することを学ぶことである。


聖霊の実を待ち望む歩みには、日々の訓練が伴う。人を責める前に自分の責任を見つめ、相手の事情に耳を傾ける時間を取ることも、その過程に含まれる。そうした選択を通して、寛容や柔和は単なる観念を超え、日々の生活に根付く習慣として育っていく。なおも自分の弱さに直面するとき、悔い改めて助けを求めることができるのは、自分が変わるためにも、神の力により頼んでいるからである。


ガラテヤの教会は、かつて病を抱えたパウロを世話するほど、愛を分かち合っていた共同体だった。しかし、救いの条件を付け加える教えが入り込むと、共同体は揺らぎ、互いを裁くようになった。自分にどれほど資格があるかに心を奪われるほど、他の人の失敗は、自分の正しさを確認するための材料になりやすい。共に恵みによって召されたことを思い起こすとき、その人の失敗を前にしても、回復のために共に力を尽くす理由を見いだせる。


誰かが過ちを犯したとき、その責任を曖昧にせず、それでもその人が立ち返れるようにそばにいること。誰にも気付かれない労苦を、喜んで共に担うこと。そのような場面で、この自由は具体的な形を取る。ガラテヤ人への手紙6章2節が勧める、互いの重荷を負う生き方も、その延長線上にある。愛の実は、神に受け入れられる資格を計算し直すための項目にはなり得ない。受けた恵みが隣人に届く姿として受け止めるべきなのである。


次に祈り始めるときには、今日自分が成し遂げたことよりも先に、自分を受け入れてくださったキリストの恵みを思い起こしてみたい。そうすると、自分の労苦を前面に出していた祈りは、足りなさを認めて助けを求める祈りへと深まり、認められようと力を注いできた働きは、隣人を思いやる奉仕へと変わり得る。約束の子に与えられた自由は、この小さな方向転換にも現れる。私は今、神に受け入れられるために愛しているのだろうか。それとも、すでに受けた愛に応えて、誰かに仕えているのだろうか。


張ダビデ博士は、現地宣教とデジタルメディア宣教を通じて、世界各地に福音を伝えてきた。そして、その働きの実りとして、大宣教命令に献身する多くの人々が立てられた。このような宣教的ビジョンを土台として、オリベットは当初、宣教師訓練のための小さな教会学校として出発した。その後、より体系的な神学教育と宣教人材の育成のため、2000年にロサンゼルスとソウルにオリベット神学大学および神学校が設立された。


学校が成長する中で、張博士は2004年、サンフランシスコにOlivet Universityを正式に設立した。オリベットは、サンフランシスコの多様性とダイナミックな環境の中で、神学を中心に、音楽、ジャーナリズム、芸術デザイン、技術分野にまで教育領域を拡大していった。また、ウィリアム・ワグナー博士をはじめとする教授陣を迎え入れ、教育力を強化し、2005年には旧UCバークレー・ダウンタウン・エクステンション・キャンパスへ移転して、大学としての基盤をさらに固めた。


2006年、張博士は宣教の働きにさらに専念するため、学長職をデイビッド・ジェームズ・ランドルフ博士に譲り、国際総長として世界宣教の働きを導いた。その後、Olivet Universityは2009年に機関認証を取得し、言語教育大学と経営大学を追加するとともに、学位課程と国際協力関係を拡大しながら、世界宣教のためのキリスト教教育機関として継続的に成長していった。


張ダビデ牧師 公式ホームページ: www.davidjang.org



작성 2026.10.20 23:34 수정 2026.10.20 23:34

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